スケール 1

今後、シリーズで「スケール」について書いていきたいと思います。


今回は、「右と左」について。
右翼と左翼の再定義の必要性はよく語られていますが、
自分は「スケール」の概念から論じてみたいと思います。



右と左は、両端を担うもので、
バランスをとるためのシステムです。
例えば、両社の共通点の一つに



「何かを大切に想う」
があります。



むしろ、世の中に存在するのは
「何も大切に想ってない人」
と、
「右と左を含んだ、何かを大切に想う人」
の二種類なのかもしれません。

誰かを愛するということは、誰かを愛さないということ。
何かを選べば、それは右だ左だと言われる。
選択すれば傾くんです、バランスが。
つまり、選択は単発で評価するのではなく、
右へ左へと揺れてきた経過を線で俯瞰する視点が必要です。



「何も大切なものがない」
なんて、人はいるのかな。




まぁ、とにかく最初に定義するのは、
「右も左も、何かを大切に想っている人であること」
です。

そして、それは論じる「スケール」の違いしかない、
というのが今回のアングルです。


つまり、

個人を唄えば左だと言われ

家族を唄えば右だと言われ、

地域を唄えば左だと言われ、

国を唄えば右だと言われ、

世界を唄えば左だと言われる。


しかも、スケールアップの中で交互に
入れ替わる。


つまり、世の中にある対立というのは
「何かを大切にしている人」同士が、
スケールの違いを乗り越えられていない状態が引き起こしている、
と、考えるのです。



なぜ、「スケール」について書こうと思ったのかの、
理由がここにあります。
つまり、世の中のほとんどの誤解が「スケール」の定義の違いから
きているものだと思うからです。



テーマの「スケール」がどんどん変化する会話の中では、
その度にお互いが、今どんな「スケール」で話しているのかを
理解していないと成立しません。

これは、コミュニケーションの根底に関る問題です。
このスケールの変化を、阿吽の呼吸で出来ると、
とてもスムーズなコミュニケーションが成立します。


笑いのシステムでは、「スケール」を
わざといきなりずらして、ボケたりするんだし。



僕、この「スケール」は授業になると思ってるぐらいです。
ハーバードの「JUSTICE」みたいに。

「SCALE」

みたいな。



話が逸れました。
「右と左」でした。





結論、
僕が思うのは
右と左の人たちは、
違うスケールを有しているだけで、
「何かを大切に想っている」という共通項があり、
意見を論じるテーブルにつく意欲があるわけです。



ただ、少しリベラルの人たちは「スケール」をゴリ押しする傾向があります。
だから、幼稚に感じる。



コミュニケーションを円滑にするためには、
「スケール」の認識と、
「スケール」の提示が、鍵です。