作品を創るという事

僕の名前は、「壮」と言います。
父は「創」という漢字にしたかったのですが、
祖母が「傷」の意味があるからいけないと進言して、

「壮」に落ち着いたらしいです。


言葉というのは、力を持っている。
それは、確かに印象、無意識の中であるのかなと思います。
名前が、その人の生き方に影響を与える事は確実にあるだろうと・・・

作品を創る。
この荒唐無稽の世界を、一つの世界観に閉じ込める。
つまり、決めつけていく・・・

これは、非常に暴力的です。
どう、観客にお任せしますと言っても、
作品を創った時点で、世界を決めつけていく行為です。
じゃないと、作品にならない。

つまり、作品を創るという事は、非常に暴力的な行為なのです。

でも、そこにカタルシスがある。
人間は、血が踊る暴力性を求めており、
そこに快感を感じるのです。


バランスが大事だと、思いますが。


僕は、「矛盾」という言葉を常に意識の中で基準として設けています。

数字や、礼儀のようなもの以外で、

はっきり一つと決められている事象に対して、僕は信用なりません。
逆に、矛盾している状態のものを信用します。

突き詰めたら、全て「矛盾」に突き当たると思っているから。

突き詰めたものを信用する。
「矛盾」している人を信用する。

突き詰めてない「矛盾」なんか、矛盾と呼ばないで・・・


と、いうわけで。

前衛映画

それが、映画である、というだけで満足。

これは、学生になったばかりの頃、
映画を作れるんだという希望に胸を膨らませていた
僕の心を占領する想いであったように思います。

好きな映画は?
と、問われれば、お前知らないだろうと作品を列挙するのであります。

前衛だと言われたり、アバンギャルドだと言われたり、(同義ですが、片方しか使わない人がいる)
するような映画は、今でも好きです。
と、言うより作り手の情熱が好きです。

アブノーマルで、ターゲットが狭い分、
僕がその中に納まることも、まれです。

でも、映画愛絶頂期の頃は、
「それが、映画である、というだけで満足していた」
時期があります。

もう失せましたが。
いつからか、僕の愛情は映画だけが占領するものではなくなりました。

たくさんのものに、向けられています。
でも、それはやっとこさ、

「作り手」になったんだと、自覚しています。
だから、僕はやはり、

大衆のための、娯楽作品を書ける本書きになりたいと思います。

でも、前衛を作る人も必要だと思っています。
どんな筋で、
どんな題材で、
どんなテーマで、
どんなキャラクターでも、

映画は、映画である

という道も、あるんだと信じています。

自分は目指せないけど、必要だと思っている存在がある。
矛盾してるけど、そうなんです。

スケール 1

今後、シリーズで「スケール」について書いていきたいと思います。


今回は、「右と左」について。
右翼と左翼の再定義の必要性はよく語られていますが、
自分は「スケール」の概念から論じてみたいと思います。



右と左は、両端を担うもので、
バランスをとるためのシステムです。
例えば、両社の共通点の一つに



「何かを大切に想う」
があります。



むしろ、世の中に存在するのは
「何も大切に想ってない人」
と、
「右と左を含んだ、何かを大切に想う人」
の二種類なのかもしれません。

誰かを愛するということは、誰かを愛さないということ。
何かを選べば、それは右だ左だと言われる。
選択すれば傾くんです、バランスが。
つまり、選択は単発で評価するのではなく、
右へ左へと揺れてきた経過を線で俯瞰する視点が必要です。



「何も大切なものがない」
なんて、人はいるのかな。




まぁ、とにかく最初に定義するのは、
「右も左も、何かを大切に想っている人であること」
です。

そして、それは論じる「スケール」の違いしかない、
というのが今回のアングルです。


つまり、

個人を唄えば左だと言われ

家族を唄えば右だと言われ、

地域を唄えば左だと言われ、

国を唄えば右だと言われ、

世界を唄えば左だと言われる。


しかも、スケールアップの中で交互に
入れ替わる。


つまり、世の中にある対立というのは
「何かを大切にしている人」同士が、
スケールの違いを乗り越えられていない状態が引き起こしている、
と、考えるのです。



なぜ、「スケール」について書こうと思ったのかの、
理由がここにあります。
つまり、世の中のほとんどの誤解が「スケール」の定義の違いから
きているものだと思うからです。



テーマの「スケール」がどんどん変化する会話の中では、
その度にお互いが、今どんな「スケール」で話しているのかを
理解していないと成立しません。

これは、コミュニケーションの根底に関る問題です。
このスケールの変化を、阿吽の呼吸で出来ると、
とてもスムーズなコミュニケーションが成立します。


笑いのシステムでは、「スケール」を
わざといきなりずらして、ボケたりするんだし。



僕、この「スケール」は授業になると思ってるぐらいです。
ハーバードの「JUSTICE」みたいに。

「SCALE」

みたいな。



話が逸れました。
「右と左」でした。





結論、
僕が思うのは
右と左の人たちは、
違うスケールを有しているだけで、
「何かを大切に想っている」という共通項があり、
意見を論じるテーブルにつく意欲があるわけです。



ただ、少しリベラルの人たちは「スケール」をゴリ押しする傾向があります。
だから、幼稚に感じる。



コミュニケーションを円滑にするためには、
「スケール」の認識と、
「スケール」の提示が、鍵です。

おみやげ

先日、おみやげにこちらのコーヒーをいただきました!

http://www.tashirocoffee.com/

コーヒーは入れ方云々の前に、豆らしいです。
後はそのうまい豆を当たり前に入れる事が大事らしいです。

素材のうまい活かし方ってのは、難しいです。
うまい、題材をこねくりまわしてもしょうがないもんな。

スト―リーの見せ方って、もう出尽くしているわけで。
その中でいかに時代を切り取って、

新しく見せかけながら提示する。

そんで、ギリギリまでルールを破る。

このギリギリがチキンレースなわけで、
勝負の分かれ目なんだと思います。

足して引いて、かけて割って

音楽業界は2000年代初頭まで、
かけ算で商売ができていたらしいんですが、
CDレンタル、you tube、違法ダウンロードが存在する現在、
ライブを積み重ねる、足し算の商売がスタンダードらしいです。

これは映像業界にも言えることで、
もはや掛け算の商売はできないのです。

では、映像業界のライブとは?

それは、映画館なんでしょう。
恐らく。
もしくは、映像を駆使したイベントとなるんでしょう。

うーん・・・

ライブは行くけど。
映画館か。

なんか、弱いな。

本当に、3Dなんかな。
難しいです。

映画館で客呼んで、DVDBOX購入してもらって。

ほんまに?
なんか、未来が明るくない。

月額制のオンデマンドは、割り算ですね。
これも、映像の一つの流れに感じます。
でも、どんどん小粒になっていくのは、間違いない。
昔の一週間に一回、何でもいいから公開しろってなってた映画会社みたい。
それに、買い集めて垂れ流しで、もはや作ってもいない感じが否めない。

引き算は?
検索して絞り込んでいくのは、引き算ですね。

みんなが何を持って「引き算」していくのか。

前にも触れましたが、「固有名詞」だと思います。
http://d.hatena.ne.jp/shimagin05/20090709

これからは、本当に「固有名詞」を所有した者が、
制する時代だと思います。

緑川姉弟


「緑川姉弟」というオリジナル脚本を書きました。
 
お姉ちゃんが大好きな弟の、シスコンの話です。

その中で思った、つぶやきの様な考え。

「村」を描くために、いろいろ取材してわかったことがある。
村というのは、「つながり」を意識化する装置だった!

なんて、偉そうに言っても、
昔の人はそんなんわかっとるわいって話なんでしょうが。

字(あざ)って昔は村のことを呼んだりもしました。
名前をすごく大切にしていたんです。
同じ名字がたくさんいたりして、俺もお前も「緑川」だな。
しかも、そこに流れてる川の名前、「緑川」だな、つって。

まぁ、これが脚本の設定なんですが。


後は、祭事と先祖崇拝。
どちらも、地域を強くコミットするための装置です。
だんじりのある地域に行くと、いつも若者が地域に多く残ってることに
驚かされます。
(まぁ、それでも昔に比べたら減ったらしいんですが)
祭りが生きがいじゃ〜なんて言ってたら、都会の人はすぐバカにしますが、
これは地域に若者の暮らしを定着させる上で、重要な役割を果たしています。

過疎化なんて、デカイ祭りが解決してくれる!
は、言いすぎでしょうか。

後は、先祖崇拝。
これは、字も、祭事も統合するような、メインのテーマです。
つまり、私が誰で、あなたは誰?を語るうえで、
「〜の家の者」で片付く便利なシステムなのです。

村システムの崩壊は、
字、祭事、先祖崇拝の崩壊を指します。
つまり、「私は誰?」
って悩む若者が増えるんです。

そんな人には、言ってあげてください。
「お墓参りに行きましょう!」

って。

視点を考える

同じものでも、見るアングルによって変化する。
この本は、日常生活の中で二人の老人がどんなアングルを使ってるかを、
わかりやすく教えてくれる本です。
視点を増やすのに、非常に参考になります。

また、宮崎駿の本はとても過激で面白いのでおススメです。
かなり価値観に偏りがあります。
オススメはこちらの二冊。

出発点―1979~1996

出発点―1979~1996

折り返し点―1997~2008

折り返し点―1997~2008

駿語録はとても、面白いものがあります。
やっぱり腐海のシステムを考案した人だから、説得力を持って強引な話をしてくれます。



ところで、宮崎駿は、記憶能力がすばらしいそうです。


基本的に、「形状」「動き」を記憶することを念頭に置いたアングルを、
普段から心がけているのだと思います。


有名な話では、プロデューサーの鈴木さんとヨーロッパに旅行に出かけた際に訪れた住宅で、
宮崎駿は延々と建物の構造を見上げて眺めたりしていたらしいです。その横で、鈴木さんが
パチパチ写真を撮っていると、ウルサイと怒られたとか。

半年後、魔女の宅急便をつくっている時に駿が鈴木さんのところへ来て、


「写真見せて。こないだの旅行の」
 

と言うらしい。鈴木さんが写真を見せると、


「あぁ、こここうなってたんだ。そうだった、そうだった・・・」


みたいなことを言いながら絵を見せてきた。
それは、写真よりも雰囲気をしっかり掴んだあの住宅の一室の絵だったらしいです。


それが、キキの部屋らしいです。



この話に登場する宮崎駿のアングルは、「空間把握を前提に見る」ということだと思います。
「いい景色だな〜」って見てない。
「ここがこうなってて、柱がこう走ってて・・・あぁ、あそこの壁は赤茶けてる・・・」
とか、ブツブツ考えながら見ている。


これも、一つの視点なんだと思います。


 また、僕がものすごく大好きな写真家さんに松本コウシさんという方がいます。
 こちらの方は、雰囲気のつくりかた、選び方が凄く上手だなと思います。
 ぜひ、チェックしてみてください。


 http://matsumoto.moo.jp/