タバコポイ捨て禁止の公共広告

「煙草のポイ捨て禁止」の公共広告は数多つくられてきたが、若者のアンテナに少しでも引っかかるものがつくりたいというのが、今回の狙いでした。

「HD」でぜひ、ご覧ください。日本語版もじきにUPします。


ちなみに、


「黒い女」と「白い女」なんですが、実は肌の色は逆転してます。

より、ハッキリと衣装が際立つ。
カラコレ全盛期であり、この作品も色補正を行い、コントラストも調整していますが、
現場で「被写体をつくる」ことの大事さを忘れないようにしています。


「動く被写体」をどう倍増させて撮影するかが、今後の課題です。


「絵をつくる」という行為ともっとじっくり向き合っていこうと思います。




労働について

映像の労働環境はとにかく悪いと思う。
労働者の質も悪い。

つくる為に全てを捧げる労働者がいない。
また、安心して捧げるための環境がない。


 日本の映画界は、新しい環境の構築と、モチベーションの高い労働者の育成に力を注がないといけない。
映像業界の人たちは、会社員だとか、表現者だとかの気位だけ高く、どこまで偉くなろうと、


「ものをつくる」仕事というのは、労働であることを忘れている。


城を作ろうが、映画をつくろうが、形あるものを作るためには労働が必要なのである。そこが、サービス業とは違う。
どうも、クリエイティブという言葉が乱用され始めてから、筋肉の動かし方と、体の柔軟さに鈍感な人が多いと思われる。(自分も柔らかさに関しては怠っている)

物を持ち上げ、

運び、

走り、

汗をかき、疲れて寝る。

当たり前だけど、それがないと実写の映画は完成しないのである。
だいたい、汗をかくのが嫌いだとか、男くさいのは嫌だとか論外。
映画は、取り扱う物質量からして、間違いなく力作業である。

 だから、思う。

給料のシステムが悪い。

これからの映画の現場の給料は、

基本給(労働時間と比例)と技術料にわけるべきである。

そして、基本給を上げることこそが、日本映画の未来である。
平均的な賃金アップを計ることが重要。
技術料にどれだけお金を払うかは、製作サイドの心意気の問題。
低くてもおもしろければやりたい技術者はいるし、金だけとって古臭い技術に固執するつまらない老人もいっぱいいる。
つまり、まず「まぁ、食っていける」という段階の給料を安定させる。
技術に対する給料は、日本人お得意の「ご祝儀相場」でも作って、日本人らしく相談すればいい。ハリウッドスタイルは合ってない。

 もっと心意気を大事にしよう。

製作サイドはケチすぎるし、もらう側もガメつすぎる。
きちんとすればいいじゃない。お金が欲しいなら、別の仕事しなさい。
もっと払うべき人はいるし、もっと減らすべき人がいる。

 もっと割いた時間にお金を払うべき。
 
 その人がどれだけ時間を割いたか見るべき。
 
 もちろん、効率悪い人間は、差し引くべき。

と、いうことで。

 ずばり値段を言います。(現在の物価、経済状況を踏まえて)


 
 基本給(時給1500円)で、どうでしょう。


つまり一日10時間労働した人は、1万5千円。
それを月(30日で週休二日の場合)22日入った人は、33万円。

 
 いいんじゃない?


これを、年齢に関係なく固定給にする。(物価・経済状況には合わす)
つまり、技術を伸ばさない限り、給料は上がらない。そして、年をとってから、技術が下がったと判断されると給料は下がる。

 技術料、100万の人がいれば、10万の人もいる。
 それを、決めるのは監督。

監督の仕事に、各スタッフの技術料を決めることを仕事に入れるべき。
それが、監督が責任を持つということである。
きれい事抜きに、みんな監督に気に入られようと、言うこと聞きます。

 そこから先は、監督の哲学で良い。
 監督は、マニフェストを提示すればいい。

たとえば、
「俺は何でも言うこと聞くやつがほしい!」とか、
「俺は、自分で考えて、能動的に動けて、意見もしてくる奴が欲しい!」とか  

そして、そのマニフェストに合う人間には技術料を高くつける。
と、約束する。
そのマニフェストに共感できない人間は、その作品に参加しなければ良い。食うために、仕事をするのなら、考え方が違っても監督に合わせるべき。それが、社会人ってもんでしょ。

 以上。

 結局、このシステムでも人徳は必要だし、みんなの成果と評価に対する考えが一つの現場ではまとまって、気持ちが良い。 

これからの映像はどうなるのか?

日常に「映像」が溢れている。
どこにいても映像は、僕たちの目に飛び込んでくる。
テレビでも、オンラインでも、街中でも、映像が溢れている。

映像の起源は、汽車が駅に入ってくる記録映像から始まったことになっているけど、それは「像を写す」ことの起源ではなく、「動く像を写す」ことの起源だった。
つまり、映像=「像を写す」ことであるならば、写真が起源かもしれないし、影絵が起源かもしれない。
映像=movie ではなく、映像=visuall ではないか?

ただ、英語で visual と辞書で引くと形容詞として扱われており、
名詞的用法では visual aid (視覚教材)という定義になっている。
この辺は、英語に詳しい川合君が解説してくれれば・・・

つまり、visual ではなく、外来語としての「ビジュアル」の意で、
自分は話している。

映像というものの概念自体が、ハードとインフラの向上により、
広義で曖昧になってきている。

「僕、映像つくってます!」
「へぇー・・・なにを?」

映像の何を作ってるのってことになる。


そんな時に、「これからの映像はどうなるのか?」


考えられることは、「複雑化」と「単純化」の両面進化ではないか。
A面とB面。アナログ的進化。表裏一体。巻き戻しの関係。
表現手法は混ざり合い、映画だとかTVだとかの垣根は崩れ、
構造は複雑化するが、形式は単純化する。
それがA面とB面のように繰り返しやってくる。
総じて、出す側も見る側も、面倒くさくなって、
「映像だから、映像だよ」っていう風になる。

そうなると、これからは「固有名詞」の時代。

「昨日、すべらない話観たよぉ!」
「へぇ!面白かった?」
「絶対観た方がいいよ」
「わかった!you tubeか、DVDか、テレビか、どれかで見る!」

どれでもええのよん。何でも観れるんだから、もはや何で観るかなんて、ジャンルにならない。「すべらない」ことが大事なんです。
お笑いか、ストーリーなのか、ドキュメントなのか。

もちろん、映画もテレビも細々と生き残っていくけど、
もはやインターネット上で表現されるビジュアルに、市場としては到底叶わないと思う。だから、淘汰されるし、フィルムは伝統工芸になる。

地デジって・・・
今、テレビ観てる若者は十代か、フリーターか、ニートじゃないの?
小学生は塾と習い事とゲームでサラリーマン並みに忙しいわけだし。

必要なくなったテレビ局は、国立映像民芸館として、箱物にする。
日本の文化を支えた人たちということで、セーター首に巻いてサングラスかけたプロデューサーのロボットとか置いて。


さてさて、映像に話を戻す。

みんなの欲求も「単純化」する。
「味わいのある映画が観たい」とか言わずに、
「泣きたい!」「面白いのが欲しい!」「真実だけ教えて!」
みたいになってきて、
いよいよ、宗教の時代になってくる。
「複雑化」から「単純化」への過程の中で宗教は成長する。
父が、人類最大の宗教はキリスト教でも、イスラム教でもなく、
「money」であると教えてくれたんだけど、
それもつまり、社会が「複雑化」する中で「単純化」する為のシステムとして生まれた!!

さてさて、映像に話を戻す。

映像ってくくりは弱い。
もはや、「映像」を見たいなんて思う人いるの?
「映像」って・・・何かよくわからん。
見えてこない。

そうじゃなくて、「松本人志」って名前が入ってたら、
映像だろうが、ライブだろうが、本だろうが、みんな観てくれる。
キリストが必要。
福沢諭吉が必要。

「ドル」ってくくりが必要。
「ドル」=「お笑い」

お金が、実はただの紙であることのように、
映像も、実はただの記録方法にすぎないことにみんな気づいてる。

だから、3Dになろうが、喜ぶのは最初だけ。
そうじゃなくて、「信じれるシンボル」が欲しい。
松本の新作映画のタイトルは、「しんぼる」らしい。


話が「複雑化」してきたので、「単純化」する。


映像のたどる道。

1 媒体の垣根の崩壊。
  メディアのストックは全て、i-phonで一括。
  大画面化、立体化が可能な可視化装置が、
  あらゆる所にユキビタス化する。

2 あふれ出すメディアから、視聴者は個々の「シンボル」を基準に、
  ジャンルを超えて消費する。
  大事なのは、「固有名詞」。

3 はっきり言って、「プロ」って言葉は消える。
  あえて言うなら、「シンボル」を確立できた人がプロ。
  テレビだとか、映画だとか、守ってくれる唯一の世界は崩れ去り、
  テレビマンなんて言葉は、死語になる。
  資本も、スキルも、必要最低ラインになる。


  今、思いつくのはこんなところです。