これからの映像はどうなるのか?

日常に「映像」が溢れている。
どこにいても映像は、僕たちの目に飛び込んでくる。
テレビでも、オンラインでも、街中でも、映像が溢れている。

映像の起源は、汽車が駅に入ってくる記録映像から始まったことになっているけど、それは「像を写す」ことの起源ではなく、「動く像を写す」ことの起源だった。
つまり、映像=「像を写す」ことであるならば、写真が起源かもしれないし、影絵が起源かもしれない。
映像=movie ではなく、映像=visuall ではないか?

ただ、英語で visual と辞書で引くと形容詞として扱われており、
名詞的用法では visual aid (視覚教材)という定義になっている。
この辺は、英語に詳しい川合君が解説してくれれば・・・

つまり、visual ではなく、外来語としての「ビジュアル」の意で、
自分は話している。

映像というものの概念自体が、ハードとインフラの向上により、
広義で曖昧になってきている。

「僕、映像つくってます!」
「へぇー・・・なにを?」

映像の何を作ってるのってことになる。


そんな時に、「これからの映像はどうなるのか?」


考えられることは、「複雑化」と「単純化」の両面進化ではないか。
A面とB面。アナログ的進化。表裏一体。巻き戻しの関係。
表現手法は混ざり合い、映画だとかTVだとかの垣根は崩れ、
構造は複雑化するが、形式は単純化する。
それがA面とB面のように繰り返しやってくる。
総じて、出す側も見る側も、面倒くさくなって、
「映像だから、映像だよ」っていう風になる。

そうなると、これからは「固有名詞」の時代。

「昨日、すべらない話観たよぉ!」
「へぇ!面白かった?」
「絶対観た方がいいよ」
「わかった!you tubeか、DVDか、テレビか、どれかで見る!」

どれでもええのよん。何でも観れるんだから、もはや何で観るかなんて、ジャンルにならない。「すべらない」ことが大事なんです。
お笑いか、ストーリーなのか、ドキュメントなのか。

もちろん、映画もテレビも細々と生き残っていくけど、
もはやインターネット上で表現されるビジュアルに、市場としては到底叶わないと思う。だから、淘汰されるし、フィルムは伝統工芸になる。

地デジって・・・
今、テレビ観てる若者は十代か、フリーターか、ニートじゃないの?
小学生は塾と習い事とゲームでサラリーマン並みに忙しいわけだし。

必要なくなったテレビ局は、国立映像民芸館として、箱物にする。
日本の文化を支えた人たちということで、セーター首に巻いてサングラスかけたプロデューサーのロボットとか置いて。


さてさて、映像に話を戻す。

みんなの欲求も「単純化」する。
「味わいのある映画が観たい」とか言わずに、
「泣きたい!」「面白いのが欲しい!」「真実だけ教えて!」
みたいになってきて、
いよいよ、宗教の時代になってくる。
「複雑化」から「単純化」への過程の中で宗教は成長する。
父が、人類最大の宗教はキリスト教でも、イスラム教でもなく、
「money」であると教えてくれたんだけど、
それもつまり、社会が「複雑化」する中で「単純化」する為のシステムとして生まれた!!

さてさて、映像に話を戻す。

映像ってくくりは弱い。
もはや、「映像」を見たいなんて思う人いるの?
「映像」って・・・何かよくわからん。
見えてこない。

そうじゃなくて、「松本人志」って名前が入ってたら、
映像だろうが、ライブだろうが、本だろうが、みんな観てくれる。
キリストが必要。
福沢諭吉が必要。

「ドル」ってくくりが必要。
「ドル」=「お笑い」

お金が、実はただの紙であることのように、
映像も、実はただの記録方法にすぎないことにみんな気づいてる。

だから、3Dになろうが、喜ぶのは最初だけ。
そうじゃなくて、「信じれるシンボル」が欲しい。
松本の新作映画のタイトルは、「しんぼる」らしい。


話が「複雑化」してきたので、「単純化」する。


映像のたどる道。

1 媒体の垣根の崩壊。
  メディアのストックは全て、i-phonで一括。
  大画面化、立体化が可能な可視化装置が、
  あらゆる所にユキビタス化する。

2 あふれ出すメディアから、視聴者は個々の「シンボル」を基準に、
  ジャンルを超えて消費する。
  大事なのは、「固有名詞」。

3 はっきり言って、「プロ」って言葉は消える。
  あえて言うなら、「シンボル」を確立できた人がプロ。
  テレビだとか、映画だとか、守ってくれる唯一の世界は崩れ去り、
  テレビマンなんて言葉は、死語になる。
  資本も、スキルも、必要最低ラインになる。


  今、思いつくのはこんなところです。